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日本とのゆかりの地を訪れて (オハイオ編)

第一話
★タフト大統領とポトマック川の桜(シンシナティ)
2012年は、ワシントンD.C.のポトマック川河畔に東京市から桜が寄贈されてからちょうど100周年にあたります。100年前、桜が寄贈された時にアメリカ合衆国大統領だったのが、オハイオ州シンシナティ出身のウィリアム・タフト大統領です。元オハイオ州知事(1999年から2007年まで)のロバート・タフト・ジュニア氏は、同大統領のひ孫にあたります。タフト大統領は、陸軍長官時代に来日し、当時の首相桂太郎と「桂・タフト覚書」(1905年)※を交わしたという点でも、日本とのつながりを持っています。
※この覚書は、アメリカが日本の韓国における指導的地位を認め、日本がフィリピンに対し野心のないことを表明し、日露戦争後の両国の対アジア政策を調整した重要な覚書です。
外務省ページhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/meiji_05.html#11

 

第二話
★トーマス・エジソンと京都府八幡市の竹の関係(マイラン)
世紀の発明家、トーマス・アルバ・エジソンは、マイラン市に生まれました。エジソンの数ある発明の中でも、炭素白熱電球が日本と深い関係があることをご存知でしょうか。
白熱電球のフィラメントの寿命を長く保つため、エジソンは、世界中の様々な材料を試しました。日々の実験と苦労の末、数ある材料の中でも京都府八幡市にある石清水八幡宮境内の竹は、フィラメントを1,200時間以上も維持することを発見しました。1879年、エジソンは、この八幡市の竹を使った炭素白熱電球の実用化に成功、1年もしない内に白熱電球を商品化し、その後十数年間にわたって、竹から作られたフィラメントが世界を明るく照らし続けました。
この白熱電球の発明者と竹の縁から、マイラン市と京都府八幡市は1984年に姉妹都市となりました。姉妹都市提携の署名が行われたマイラン市内のエジソンの生家は、現在でも訪問することができます。

エジソンの生家

マイラン市エジソン生家 (9 Edison Drive, Milan, Ohio)
オハイオ・ターンパイク118番出口 博物館は2月から11月の期間開館中 電話 (419) 499-2135

 

第三話
★シンシナティとラフカディオ・ハーン:ハーンがはぐくんだ親日家
日本研究家、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は怪談研究で知られていますが、彼の業績はそれだけに留まりません。当時のアメリカで大の親日家達を育てたのです。
ハーンの略歴を少し。軍医の父が西インドに赴任したのち、母が精神を病み母国ギリシャに移住。ハーンは4歳で大叔母に引き取られます。1869年(20歳)、一人で現在のアイルランドからオハイオ州シンシナティ市に移民。1872年にトレード・リスト紙、1873年から75年までシンシナティ・エンクワイヤラー紙(75年、当時違法だった黒人との結婚のため退社)、1876年から77年までそのライバル紙のシンシナティ・コマーシャル社で記事を書いていました。その後、ニューオルリンズ、ニューヨークと転居した後、1890年ハーパー誌通信員として訪日します。
ハーンが日本を紹介した英文の著作は米国人に広く読まれ、沢山の親日家を醸成しました。特に『心(Kokoro)』はアメリカ人に深い感動を与えること、これほど日本に影響を与えたにもかかわらず、日本でハーンの業績が知られていないことに憤慨している人たちがいることなどが外務大臣、後に総理大臣を務めた幣原喜重郎の著作、『外交五十年』に記されています。
田中欣二シンシナティ日本研究所所長は、ハーン研究を促進するため、英文研究雑誌(Lafcadio Hern Journal)の発行、ハーン研究者との交流及びこれら研究者のシンシナティにおける研究の支援を目的に、1989年11月に米国ラフカディオ・ハーン協会を設立し、ハーンの生涯と作品研究等を広く日米の愛好者に紹介する活動を続けています。日本の研究者の会、「八雲会」(松江市)のメンバーがシンシナティにて日米合同ワークショップを開催するなど、ハーンをつながりにした人と人との交流が今も脈々と続いています。

 

第四話
★シンシナティと日本:日本人女性の著作、『武士の娘』がベストセラーに
1925年(大正14年)に米英にて出版され、ベストセラーになったシンシナティ在住の日本人女性の著作があります。自伝の形をとるものの、武士階級日本女性の生き方と精神文化を描写し米国人に伝える資料とも取れる『武士の娘』の著者、杉本鉞子は、1872年、代々長岡藩の家老職を務めた稲垣家に生まれました。13歳を目前に父を失い、兄の勧めでアメリカに住む日本人青年、杉本松之助と14歳で婚約、1898年頃渡米し結婚、1899年、長女の花野が誕生します。生活の場はシンシナティ市郊外のカレッジヒルでした。夫松之助はアメリカを広く旅行した後、シンシナティに居を定め、「ニッポン」を屋号とする店を営みました。杉本夫妻は、シンシナティの上流社会の人々に受け入れられ、やがて日本の理解者となる人々と知り合いになっていくのです。
杉本夫妻が住んだのは、オービッド・ウィルソン氏のサマーハウスで、後年、同氏は高齢者ホーム用に当該物件を含む土地をメソジスト教会に寄進。現在も高い2つのタワーが特徴の「ツインタワーズ」高齢者ホームとして使われています。

 

第五話
★シンシナティと日本:故郷に忘れられた陶芸家、白山谷喜太郎
1887年、石川県出身の陶芸師白山谷喜太郎(しらやまだに きたろう)が外国人技術者(デコレーター)としてシンシナティに招かれ、1880年に設立されたルックウッド陶器社を、米国を代表する美術陶磁器会社とすることに貢献しました。同人の作品は数々の国際博覧会で受賞を重ね、同社は米国のアール・ヌーヴォーを牽引したと言われています。そもそも、同社は、フィラデルフィアで開催された万国博覧会で日本製陶器の美しさに魅了された創立者、マリア・ロングワース・ニコラスが米国でも美術陶器作りの会社をつくろうとして興した会社です。ルックウッド社の作品はシンシナティ美術館で見ることが出来ます。
1890年~1980年代は、ジャポニズムが西欧で人気の時代。シンシナティにもジャパンマニアという日本の工芸を熱狂的に喜ぶ富裕層がいました。白山谷は1886年9月からシンシナティで催された工業博覧会に「日本人村」の陶芸絵付師として参加しました。「日本人村」とは、横浜のデーキン商会が組織して、日本人数十人から百人規模で欧州、米国、豪州を巡回し、日本の工芸、陶磁器の形成や絵付、織物、彫刻などを実演して製品を売ったり、和服の女性がお茶を出したり、曲芸を見せたりする移動式博覧会で、各地で大変評判だったそうです。ニコラスはこの日本人村で白山谷に会い、半年後にボストンのフジヤマ店から呼び寄せたのです。
白山谷はシンシナティに定住した最初の日本人と言われています。白山谷氏は一生独身で通し、1948年7月19日、シンシナティで亡くなるまで、陶磁器の製作に献身したそうです。彼の作品は今でも骨董品収集家の間では最も人気のある作品の一つ。高値で取引されています。しかし、旅行発給記録から出身・身分は石川県士族であり、後に本籍を東京府に移したことは判明したが、何時何処で生まれ、どのような教育を受けたかの記録は未だに見つかっておらず、日本では極めて少数の人たちにしか知られていない「故郷に忘れ去られた陶芸家」ですが、シンシナティには、作品を通じてしっかりと足跡が残っています。

 

★皆様のまわりで、意外に知られていない日本にゆかりのあるエピーソードがございましたら、ぜひ情報を当館までお寄せください。お電話で当館広報文化班にご連絡を頂くか、e-mail までメールでご連絡ください。